■渋沢栄一と会津(2021年)

今年、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役である渋沢栄一は、ここ阿賀町を訪れていたことを知っていますか?

渋沢は郡山(福島県)から新津(新潟県)を結ぶ私設鉄道として計画された岩越鉄道(現在のJR磐越西線)の敷設にも大きく関わっています。

1892(明治25)年に福島県知事に就任した日下義雄は、岩越鉄道開通のために渋沢栄一に相談、栄一は自らも出資すると同時に株主を募り、岩越鉄道株式会社を設立、取締役として経営に関わりました。

今回は渋沢栄一が新潟から会津へ来たこと、さらに深くかかわった岩越鉄道についての講演会で、その実像に迫ります。

 

日時:2021年7月17日(土)

13:30 受付開始

14:00 開会

演題1

「渋沢は津川に来ていた!」堀口 一彦(阿賀まちづくり株式会社)

演題2

「渋沢栄一と岩越鉄道敷設物語」佐藤 仁(山都郷土史研究会)

演題3

「新潟県の岩越鉄道」目黒 公司(長岡郷土史研究会会員)

17:00 閉会 

会場: 阿賀町公民館 〒959-4392 新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬8985-1 

募集人員:20名

参加費:500円(資料代)

主催:阿賀まちづくり株式会社 

 

お問い合わせ・お申込み:阿賀まちづくり株式会社 TEL:070-8987-3747

☆コロナウイルス感染対策について

・参加される方は必ずマスクの着用をお願いいたします。

・開催日一週間前から検温・自己管理を万全に。

・当日体調不良の場合は連絡の上参加ご遠慮くください。

・新型コロナウイルスの状況次第で延期・中止する場合がございます。


ダウンロード
210717渋沢栄一と会津.pdf
PDFファイル 1.1 MB





2021年9月20日 Facebookより転載

阿賀まちづくり株式会社 AGA Community Building Corporation

---

7月に開催したイベント「渋沢栄一と会津」。

https://fb.me/e/2pbpMWVhl

その中で山都の佐藤仁先生が発表してくださった岩越鉄道敷設工事の犠牲者の話。

以下に再録します。

「阿賀川に沿って越後へ抜ける岩越鉄道の敷設は、難工事の連続でした。明治40年10月19日、鉄道庁技手板谷廣行は日出谷の鏡岩というところで、測量中、誤って足を踏み外し谷底へ転落、46歳の生涯を閉じました。」

「日出谷の鏡岩」、当初どなたに聞いても場所がわからなかったのですが、江花さんが場所特定できたとのこと、今日案内していただきました。

今はダムができて水位が高いため、川岸の岩としか見えないかもですが、当時は断崖。

街道も通ってない難所で、調査も大変だっただろうと推察されます。

佐藤仁先生によると、この犠牲になった板谷廣行という方の追悼碑が会津若松にあるそうで、その碑文とそれに対する仁先生の訳を以下に掲載します。

帝國鐡道廳技手板谷廣行君追悼碑

(碑文 縦書き)

清廉奉公忠實全職言易而行之難君姓板谷諱廣行舊幕府之士也為人忠厚質實夙奉職鐡道從事北海道碓氷奥羽岩越及日本等之諸線前後二十餘年有功績焉明治四十年任帝國鐡道廳技手尋帶若松建設事務所勤務之命翌年十月十九日以岩越鐡道線路測量之事至新潟縣東蒲原郡日出谷村過鏡岩欲下入會澤也誤墜厓下負重傷而斃矣官聞此變也特進判任一級俸先進及同僚均無不哀惜者也矣蓋爲鏡岩之地棒掛山麓而傍阿賀川懸厓数千丈雖樵夫尚難歩君冒此險職不得止也春秋四十有六歳噫便斯人空死非命不亦可惜乎今茲諸士相謀將建碑以表追悼之意徴余銘銘曰

     鏡岩如劍  險難歩行  皷勇度峭  職重命軽

     官僚聞訃  膓斷心驚  棒掛山下  空留鳥聲

      明治四十二年八月    樋口光高撰 秋月觀周書

                     石工原田種光

佐藤仁先生による訳文

心清らかに、忠実に公職を勤め、全うするというのは、言うことは容易いが、これを実行するのは難しい。君は、姓を板谷と言い、名を廣行と言う。旧幕府の士族である。人柄は、

忠実で人情に厚く、飾り気なく誠実。若くして鉄道に奉職し、北海道、碓氷、奥羽、岩越等日本の諸線敷設に従事、その間おおよそ二十余年に及び、功績をあげた。明治四十年、帝国鉄道庁技手に就任。ほどなく、若松建設事務所勤務を命じられ、翌年十月十九日、岩越鉄道線路敷設工事の測量のために、新潟県東蒲原郡日出谷村にやってきた。鏡岩を通って、入会澤に下りようとしたところ、誤って崖下に墜落、重傷を負い、落命した。官庁においては、この異変を聞き、直ちに判任官一級俸に特別昇給した。先輩及び同僚は皆一様に悲嘆にくれ、哀しみに打たれない者はなかった。考えてみるに、鏡岩の地勢は、棒掛山の麓で、阿賀川が傍を流れている。懸崖数千丈、山野を跋渉する樵であってもなお歩くことが困難なところである。君は、この危険を敢行したのだ。それは、職務上、やむを得ないことであったか。ときに、齢四十六歳。ああ、斯くしてこの有能な人材をむなしく死なせてしまった。天命を俟たない落命を惜しまずにいられようか。今、ここに至って、多くの人士が心を合わせ、碑を建て追悼の意を表そうとして、わたしに銘文の稿を求めてきた。わたしはその銘文に次のように認めた。

鏡岩は鋭い剣のように険しく、その険しさは歩行を困難にする。君は勇気を奮い起こ

してその剣のように鋭く屹立したところを渡った。君の、職の任務を果たそうとする

責任感は重く、そのために自らの命は軽んじてしまった。役所の同僚は君の訃報を聞

き、哀しみの悲嘆にくれた。棒掛山の麓には、空しく鳥の声が響いているだけだ。

         明治四十二年八月    樋口光高 撰文  秋月観周 書

合掌。